一万個の隠された泥塔:誰にも見られなくても、それは成立するのか
友人がラサから爪ほどの泥の塔を持ち帰ってきた。「擦擦(ツァツァ)」という。作る人は最初から知っている。その行き先は大仏塔の暗い隙間か、誰も訪れない洞窟だ。観客はゼロ。いいねを数え、閲覧数を更新する私たちとは、まったく逆の方向。生涯をツァツァ作りに費やしたおじいさんは言った。作っているあいだ、心がきれいになる。

一、擦擦(ツァツァ)とは
友人がラサから帰ってきて、スーツケースから小さなものがひとつ転がり出てきた。
爪ほどの大きさで、泥のような色をした、小さな塔。少し歪んで押されていて、縁には粗い指紋の跡が残っている。彼が言うには、これは「擦擦(ツァツァ)」というものだそうだ。チベット語の音で、だいたい「写し取られた塔」という意味らしい。湿った土を鋳型に入れて押し、取り出して、日陰で乾かせば一枚の完成。チベットの人たちは、これを千年以上も作り続けてきた。
工芸品なのかと聞いたら、違うという。ツァツァは売らないのだそうだ。彼のこれは、現地の人たちと一緒に一日中作って、誰かがくれたものだった。
私はそれを窓辺に置いた。生死の境をふらふらしているポトス(観葉植物)の横に。正直なところ、最初はあまり気にかけていなかった。だってあまりに地味なのだ。灰色っぽくて、麻雀の牌より小さくて、できばえは工事現場の土くれと変わらない。鉢の土に落ちたら、一週間は気づかないだろうと思っていた。
変わったのは、ある朝のことだった。斜めに差し込んだ朝日がちょうど小さな塔に当たって、土の表面に細く柔らかな艶が出ていた。私は湯呑みを持ったまま、そこに立って長い間見ていた。何を見ていたのか。うまく言えない。ただふと考えたのだ。これを作った人は、型を押していたとき、何を思っていたのだろう、と。
そのあと、少し調べものをしたり、詳しい友人に聞いたりした。知れば知るほど、これは面白いと思った。面白いのはツァツァそのものではなく、私たちの生き方と、まるで正反対だというところだ。
二、きまりごと
ツァツァにはきまりごとがある。しかも厳しい。
土はきれいでなければならない。どこで掘ったものでもいいわけではなく、できれば誰も踏んだことのない高山の土か、聖地のまわりの土。ふるいにかけて、練って、丁寧に作る人は粘土に何かを混ぜる。サフラン、高地の麦、薬草を挽いた粉。さらに丁寧な人は、高僧が荼毘に付されたあとに残った骨の欠片を少しだけ混ぜる。ほんのひとつまみでいい。パンをこねるときの塩のように。
鋳型はたいてい銅製で、塔か、仏さまか、真言が彫ってある。湿った土を押し込み、しっかり固めて、取り出して陰干しする。直射日光はだめ。ひびが入るから。
そして、できあがったツァツァはどこへ行くのか。ここがいちばん驚いたところだ。
そのほとんどは、祀られることがない。家の仏壇に置かれないし、棚に飾られたりもしない。野原へ運ばれ、大きな仏塔の壁の隙間や土台の中に押し込まれる。あるいは、普通の人なら絶対に足を踏み入れない洞窟の奥に置かれる。あるいは、マニ石の山の石と石の間に挟まれる。風が吹いて土埃が積もれば、数年で壁の一部になってしまう。
誰にも見られることがない。
作った人も、それを知っている。型を押すその瞬間から分かっているのだ。この小さな塔の一生は、暗闇と、狭さと、静けさだと。拍手もされないし、共有もされないし、誰かに発見されて「なんて美しい」と息を呑まれることもない。
チベットでは、ツァツァを作るのは功徳を積むことだと言われる。多く作れば、功徳も大きい。一生のうちに何万枚も作って、ぜんぶ山に運び込んだお年寄りもいる。投資対効果で考えると、この計算はまったく合わない。何万点の「作品」に対して、観客はゼロなのだから。
三、私たちのほうは
あの日から、自分の暮らしと比べずにはいられなくなった。
投稿をして、いいねを数える。つかなければ、消そうかと思う。何かを書けば、十分おきに閲覧数を更新する。運動には写真が要るし、読書には表紙の画像が要る。瞑想アプリに至っては、終わりにこんな一行が出る。あなたは47日連続で練習しました。98%のユーザーを超えています。
これが間違いだとは思わない。人間は応答を必要とする生き物だし、私もそうだ。見られるのは悪くない気分だ。それが本当のところで、取り繕う必要もない。
でも、夜にスマホをいくら眺めても何も得られないとき、ふと空洞のようなものができる。お菓子をたくさん食べたのに、ごはんを食べていないような。その空洞が思い出させる。誰にも絶対に見られないことを、私はずいぶん長いことしていない、と。
日記を書くのはどうだろう。あまり違う。書きながら、いつか誰かに読まれるかもしれないとどこかで思っている。お経を唱えるのはどうだろう。それも怪しい。唱えているうちに、こんな考えが浮かぶ。自分はなかなかいい人間だ、と。
本当に誰にも見られないことというのは、「誰にも見られない」という四文字すら期待していない。しているあいだ、心の中に客席がないのだ。
四、ドキュメンタリーのおじいさん
一度見たドキュメンタリーの断片を、今でも覚えている。
チベットのおじいさんで、生涯をツァツァ作りに費やしてきた人。手の中の鋳型はすり減って光っていた。一日に几十枚、何十枚も作り、子どもたちがそれを山へ運ぶ。撮影隊は何日も同行して、最後に尋ねた。これは何のためにやっているのですか、と。
おじいさんはしばらく考えて、笑って、言った。作っているあいだ、心がきれいになるから。
翻訳が正確かどうかは分からないが、大意はそうだ。功徳でも、福徳でも、来世でもない。ただ一言、心がきれいになる、と。
この言葉を何度も考えた。功徳を否定しているわけではない。功徳は本当にあるのかもしれないし、おじいさんも信じていたかもしれない。ただ、自分を語るとき、彼はそれらの言葉を使わなかった。彼が語ったのは状態だった。手で土を押しているあいだ、ほかには何もない、ということ。
フロー、集中、今この瞬間を生きる——私たち現代人が必死に追い求めるものを、書店では壁一面の本が教えてくれている。それを読むこともできないおじいさんは、一枚一枚の土の塔で、それをそのまま日常にしてしまっている。
概念を知る必要はない。彼はやっているのだ。
五、窓辺の一枚
あのツァツァは、いまも窓辺にある。ポトスはなんと生き返って、垂れた蔓の一枚が、小さな塔に触れそうになっている。
夕方、窓辺でお茶を飲みながら、ちらっと見ることがある。歪んでいて、粗くて、灰色。どんな美学の基準で見ても、合格点には遠い。でも不思議なことに、見れば見るほど、落ち着いて見える。何も証明せず、何も誘わず、ただそこにいる。
少し前にこんな一文を読んだ。修行は人に見せるためにするのではない。ツァツァに観客が要らないのと同じように。思うに、私たち一人ひとりの心の中に、たぶん一枚のツァツァがある。黙ってやって、見返りを期待せず、やっているあいだに心が静かになる何か。誰にも知られない夜に、部屋をきちんと片づけたことかもしれない。野良猫に水の入った器を置いてやったことかもしれない。喉元まで出かかっていた辛辣な言葉を、飲み込んだことかもしれない。
そういうことにはデータも記録もない。翌日には自分自身さえ思い出せない。
でも、やったことはやったのだ。
山の裂け目にある何万枚の小さな塔と同じように。誰も見ていなくても、暗闇の中に整然と並んでいる。一つが、もう一つに寄り添って。
思い出せないことは、そこにないことではない。
六、三つの問い
書いているうちに、日が暮れてきた。窓辺の小さな塔は、灰色の輪郭だけになっている。
三つの問いをここに置いておく。急いで答える必要はない。
一つめ。誰にも見られないと確信して何かをしたのは、いつが最後だろう。
二つめ。もし今後一度もいいねがつかないとしても、いまやっていることを、まだ続けるだろうか。残るものはどれで、消えるものはどれか。
三つめ。「見られること」と「確かに存在すること」は、同じことだろうか。
私自身の答えも、まだ固まっていない。まず、お茶を飲もう。


