気づき

空舟——荘子の無人の舟

今朝、ほとんどぶつかりそうになって、荘子の空舟のことを思い出した。私の怒りはすべて「向こうに人がいる」という思い込みの上に成り立っていた。

一一如是
··7分
#荘子#空舟#怒り#手放す#
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空舟——荘子の無人の舟

今朝、ほとんどぶつかりそうになった。

自転車で交差点を通過していたとき、右側から一台の電動バイクが突然飛び出してきた。ギリギリで避けた。心臓がバクバクした。怒りが一瞬で込み上げてきた——即座に、熱く、反射的に。

そして荘子の空舟のことを思い出した。


荘子はこんな話をしている。

川を小舟で渡っていると、別の舟が下流から流れてきて、自分の舟にぶつかってくる。

もしその舟に人が乗っていたら、「おい!気をつけろ!」と叫ぶだろう。怒る。罵るかもしれない。

でも、もし舟に誰もいなかったら——ただの空っぽの舟だったら?

怒らない。棒で押しのけて、そのまま漕ぎ続ける。

荘子は言う。自分を空うつして世の中を漂えば、誰が害できようか?


後でこのことを考えてみて、荘子が言っているのは「怒るべきか怒らないべきか」の説教ではないと気づいた。

もっと微妙なことを指している。「私の怒りは、誰かが与えたものではない。自分で作ったものだ」ということ。

あのバイクがぶつかりそうになったとき、乗っていた人が誰なのか知らなかった。急いでいるのか、初心者で緊張しているのか、単に不注意なのか。でも、私は瞬時に怒った。

怒った理由は、「この人はどうしてこんなことを?」——向こうに「わざとやった主体」がいると仮定したのだ。

もし舟に誰もいなかったら?風に流されてきただけだったら?

まだ怒っているだろうか?

たぶん、そうでもない。


だから怒りの核心は、出来事そのものではない。出来事に対する自分の解釈なのだ。

「向こうに誰かがいる」——わざとやった人、無礼な人、自分を軽視した人。その仮定こそが、怒りの燃料なのだ。

荘子は「怒るな」と言っているわけではない。ありきたりな教えを説いているわけでもない。

ただ思い出させてくれる。あなたの怒りは、ある物語の上に成り立っている。その物語は「向こうに誰かがいる」と語っている。

もしその物語が成り立たなかったら?


もちろん、荘子は麻痺しろと言っているわけではない。

ぶつかられたら避ける。危険なら叫ぶ。自分を守るのは本能であり、当然のことだ。

でも怒りというものは、出来事が過ぎ去った後も長く残る。あのバイクは数秒で消えた。でも怒りは一日中燃え続けるかもしれない。

一日中燃え続ける火——それはもうあの人についてではない。誰だったのかさえ知らないのだから。

それは、自分の心が紡いだ物語について燃えているのだ。


「修行」と呼ばれるもの——それがどんな形であれ——は、おそらく少しずつこれを見ることなのだと思う。

怒りを感じないことではなく、それに気づくこと。その下にある物語を見ること。「向こうに誰かがいる」という物語に。

そして、優しく自分に言い聞かせる。もしかして、あれはただの空舟だったのかもしれない、と。

今晩、水面は静かだ。風が通り過ぎていく。すべては流れていく。

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