空舟——荘子の無人の舟
今朝、ほとんどぶつかりそうになって、荘子の空舟のことを思い出した。私の怒りはすべて「向こうに人がいる」という思い込みの上に成り立っていた。

今朝、ほとんどぶつかりそうになった。
自転車で交差点を通過していたとき、右側から一台の電動バイクが突然飛び出してきた。ギリギリで避けた。心臓がバクバクした。怒りが一瞬で込み上げてきた——即座に、熱く、反射的に。
そして荘子の空舟のことを思い出した。
荘子はこんな話をしている。
川を小舟で渡っていると、別の舟が下流から流れてきて、自分の舟にぶつかってくる。
もしその舟に人が乗っていたら、「おい!気をつけろ!」と叫ぶだろう。怒る。罵るかもしれない。
でも、もし舟に誰もいなかったら——ただの空っぽの舟だったら?
怒らない。棒で押しのけて、そのまま漕ぎ続ける。
荘子は言う。自分を空うつして世の中を漂えば、誰が害できようか?
後でこのことを考えてみて、荘子が言っているのは「怒るべきか怒らないべきか」の説教ではないと気づいた。
もっと微妙なことを指している。「私の怒りは、誰かが与えたものではない。自分で作ったものだ」ということ。
あのバイクがぶつかりそうになったとき、乗っていた人が誰なのか知らなかった。急いでいるのか、初心者で緊張しているのか、単に不注意なのか。でも、私は瞬時に怒った。
怒った理由は、「この人はどうしてこんなことを?」——向こうに「わざとやった主体」がいると仮定したのだ。
もし舟に誰もいなかったら?風に流されてきただけだったら?
まだ怒っているだろうか?
たぶん、そうでもない。
だから怒りの核心は、出来事そのものではない。出来事に対する自分の解釈なのだ。
「向こうに誰かがいる」——わざとやった人、無礼な人、自分を軽視した人。その仮定こそが、怒りの燃料なのだ。
荘子は「怒るな」と言っているわけではない。ありきたりな教えを説いているわけでもない。
ただ思い出させてくれる。あなたの怒りは、ある物語の上に成り立っている。その物語は「向こうに誰かがいる」と語っている。
もしその物語が成り立たなかったら?
もちろん、荘子は麻痺しろと言っているわけではない。
ぶつかられたら避ける。危険なら叫ぶ。自分を守るのは本能であり、当然のことだ。
でも怒りというものは、出来事が過ぎ去った後も長く残る。あのバイクは数秒で消えた。でも怒りは一日中燃え続けるかもしれない。
一日中燃え続ける火——それはもうあの人についてではない。誰だったのかさえ知らないのだから。
それは、自分の心が紡いだ物語について燃えているのだ。
「修行」と呼ばれるもの——それがどんな形であれ——は、おそらく少しずつこれを見ることなのだと思う。
怒りを感じないことではなく、それに気づくこと。その下にある物語を見ること。「向こうに誰かがいる」という物語に。
そして、優しく自分に言い聞かせる。もしかして、あれはただの空舟だったのかもしれない、と。
今晩、水面は静かだ。風が通り過ぎていく。すべては流れていく。


