戦車は誰のものか——『ミリンダ王の問い』を読んで
二千年前、あるお坊さんとある王様が向かい合って、今なお古びない問いを語り合った——あなたは誰ですか。この対話を読み終えて、冷めたお茶を手に取ると、その湯飲みが急に見知らぬものに感じられた。

昨日、古い本をめくっていて、ある対話に出会った。あるお坊さんが王様に「お名前は?」と聞く。王様が「ミリンダだ」と答える。お坊さんが言う。「ミリンダというのはあなたの名前ですね。でも、そのミリンダは、あなたご自身ですか?」
この対話は『ミリンダ王の問い』——二千年以上も前の小さな本の中にある。初めて読んだとき、私はベランダで冷めたお茶を飲んでいた。その瞬間、手の中の湯飲みが急に見慣れないものに感じられた。湯飲みが変わったのではない。「湯飲みを持っているその人」が、自分でもはっきり分からなくなったのだ。
変な話だ。これほど長く生きてきて、「自分は誰か」ということを真剣に考えたことがなかった。哲学の教科書に出てくるような「我是誰」ではない。本当に立ち止まって、真面目に考えてみる——毎朝起きて、ご飯を食べて、携帯を見て、仕事に行って、家に帰って、眠る。この人は、誰なんだろう。
お坊さんと王様
お話の舞台は二千年以上前のインド西北部。ギリシャ系の王、ミリンダがいた。ミリンダ王は聡明な人で、若い頃からギリシャ哲学を学び、弁論が巧みで、人と議論するのが何より好きだった。ナーセーナという名の比丘が大変な智慧を持っていると聞き、宮殿に招いて問答をすることにした。
ミリンダ王がナーセーナにかけた最初の言葉は、少し挑発的だった。「あなたの名前は?」
ナーセーナは答えた。「仲間は私をナーセーナと呼びます。でも『ナーセーナ』という名は、単なる呼び名にすぎず、実在する、つかめる『人』ではありません。」
ミリンダ王は面白くなった。ある譬えでナーセーナを論破しようとした。
王は自分が乗ってきた戦車を指差した。「あの戦車が見えるか?」
「見えます。」
「では聞く。車輪は戦車か?」
「いいえ。」
「車軸は戦車か?」
「いいえ。」
「車箱は戦車か?」
「いいえ。」
「轅は戦車か?」
「いいえ。」
ミリンダ王は笑った。「車輪も違う、車軸も違う、車箱も違う、轅も違う。では戦車はどこにある? 先ほど戦車が見えると言ったではないか。戦車は存在するのか、しないのか?」
見事な論証だった。一つのものを構成部品に分解し、どの部品もそのもの自体ではないとすれば、そのものとは一体何なのか。
ナーセーナは動じなかった。同じ問いを王に投げ返した。
「大王、では私からも伺います。あなたの手はミリンダですか?」
「いいえ。」
「足はミリンダですか?」
「いいえ。」
「頭はミリンダですか?」
「いいえ。」
「体はミリンダですか?」
「いいえ。」
「では、あなたの感覚、あなたの考え、あなたの記憶、あなたの意識——そのどれか一つだけでミリンダと言えますか?」
ミリンダ王は黙った。
ナーセーナは続けた。「手はあなたではない。足はあなたではない。頭はあなたではない。体はあなたではない。感覚はあなたではない。考えはあなたではない。記憶はあなたではない。意識もあなたではない。では、ミリンダはどこにいますか?」
ミリンダ王はついに認めた。「ミリンダと呼べるものは見つかりません。」
ナーセーナは頷いた。「戦車と同じです。車輪は戦車ではない、車軸は戦車ではない、車箱は戦車ではない。けれど、これらすべてが一定の組み合わせで組み上がったとき、私たちは『これは戦車だ』と言います。ミリンダも同じです。あなたの体、感覚、考え、意識——どれ一つ単独で『あなた』ではありません。でもそれらが一緒になったとき、私たちは『ミリンダ王だ』と言うのです。」
五蘊
この対話を読む前、仏教に「五蘊」という概念があることはぼんやり知っていた——色・受・想・行・識。でも正直、ずっと抽象的だと感じていた。
ナーセーナの説明で、はっと分かった気がした。五蘊というのは、要するに自分自身を分解して見ることなのだ。
色——体。腕も脚も、内臓も、皮膚も骨も。 受——感じること。寒い、暑い、心地よい、苦しい。 想——ものを認識すること。何かを見て、それが何かわかる。 行——心に浮かぶ思い、衝動、習慣。 識——それらすべてに対する気づき。
五つのうち、どれ一つだけでも「私」ではない。けれど五つが一緒になったとき、「一人の人間」だと感じるようになる。
あの戦車と同じように。
思い出したのは、子どもの頃にものを分解していたこと。七、八歳のとき、家にあった古いラジオを分解して、部品を床に広げた。分解し終わって、床に座り込んでぼんやりした——ラジオはどこに行った? 部品は全部目の前にあるのに、ラジオがなくなっている。
あのころはその感覚がよく分からなかった。今は少し分かる気がする。
「空」は「無」ではない
仏教で説く「空」を聞くと、多くの人は「何もない」「すべてが虚無だ」と思う。私自身もそう思っていた。「空」は空っぽ、何もない、と。
でもナーセーナの戦車の譬えは、まったく違うことを教えてくれた。
「空」は戦車が存在しないと言っているのではない。戦車は確かに存在する——王様はそれに乗って来たのだから。ただ、戦車の「あり方」は、独立した、固定された、永遠のものではない。車輪、車軸、車箱、轅が組み合わさって現れた一つの「相」なのだ。部品があれば、戦車は消えない。でも部品が散らばれば、戦車もなくなる。
だから「空」は「無」ではない。「固定された、独立した本質がない」ということだ。
すべては組み合わせの中にあり、関係の中にある。
そう考えると、多くのことが絶対的ではなくなる。私は何か固定された「魂」が体の中に住んでいるわけではない。今の体の状態、今の気分、今の考え、今の記憶、今の気づき——すべてが一緒になって「私」という形を作っている。
明日、考えが変われば、「私」も変わる。今年、記憶が増えれば、また違う「私」になる。
「私」はいつも変化している。固定された「私」なんて、一度もなかったのだ。
この道理は、少し不安にもなる。でも同時に、少しほっともする——「私」が固定されたものではないなら、過去に犯した過ちも、恥ずかしかったことも、回り道したことも、固定された「私」が背負っているわけではない。それは確かに起きた。でもそれは「私」ではない。
ナーセーナとは誰か
この物語の中に、心を動かされた場面がある。
ミリンダ王がナーセーナに「ナーセーナとは誰だ」と問い、ナーセーナが戦車の譬えで答えたとき——実は彼は自分自身のことも答えていた。彼自身のアイデンティティにさえ執着していなかった。「ナーセーナ」はただの名前、ただの呼び名で、実在するものではない、と彼は言った。
それを聞いて、ナーセーナは議論するために来たのでも、勝つために来たのでもないと感じた。ただ、彼が見たものを誠実に語っているだけなのだ。
「自分は誰か」を本当に理解した人は、話し方が変わる。自分を証明しようと焦らない。勝ち負けにこだわらない。「自分」というものは、そもそも証明を必要としないことを知っているから。
ミリンダ王は後に仏教の支援者となった。論理で説得されたからではない。何か深いものに触れたからだ。
あの茶に戻って
ここまで書いて、ベランダのお茶はすっかり冷めてしまった。
手に取って一口飲む。冷たい。お茶の味はするけれど、さっきの温かいお茶ではない。
ふと思う。さっき温かいお茶を持っていた「私」と、今冷たいお茶を飲んでいる「私」——同じ人だろうか。
同じと言えば、同じかもしれない。違うと言えば、違うかもしれない。
あの戦車と同じように。
部品は同じ部品。でも状態が変わり、動き方が変われば、別の戦車になる。
私は哲学者ではない。大層なことは言えない。ただ、毎日の「私」が決して同じではないのなら、もう少し肩の力を抜いていいのかもしれない。何か固定された自分にならなくてもいい。昨日の自分と一致していなくてもいい。
今日の「私」、今この瞬間の「私」は、ただ今の体と、今の感覚と、今の考えと、今の記憶の組み合わせ。
それでいい。
あなたへの三つの問い:
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自分が急に見知らぬ人に感じられた瞬間はありますか? それはどんな感覚でしたか?
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「あなた」が絶えず変化しているとすれば、十年前の「あなた」と今の「あなた」は、同じ人ですか?
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今手に持っているもの、あるいは今していることを思い浮かべてください。固定された「あなた」がそれをしているのではないなら、しているのは誰でしょう?


