中国の十二支に猫がいない理由
同僚に聞かれました。どうして中国の十二支には猫がいないの? ベトナムにはいるのに。民話はねずみの裏切りのせいにするけれど、本当の理由はもっと素朴——名簿が閉じた二千年前、家猫はまだ中国に来ていなかったのです。

階段の下に、ノラの茶トラがいます。毎晩、同じ段に座っています。私が帰ってくると、一目こちらを見て、鳴きもせず、逃げもしない。昔、長い話を一度済ませた間柄なのかのように。
先週、同僚に英語で聞かれました。どうして中国の十二支には猫がいないの? ベトナムにはいるよ、彼女は猫年生まれだ、と。
私は黙ってしまいました。十二支は五歳で覚えていました。子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥。すぎるほど覚えていて、誰がいないかなんて、考えたこともなかったのです。
漢字を読まない人に聞かれて、答えられなかった。帰り道、ずっと考えていました。考えるほど、答えはひとつではない気がしました。
二千年続く恨み
まず、お話から。民間伝承はこう語ります。
むかしむかし、玉帝が十二の動物を干支に選ぶことになり、日を定めて、早く着いた者から選ばれることになりました。猫とねずみは隣同士。猫は寝坊癖があることを知っていたので、ねずみに頼みました。「あの朝、必ず起こしてね」。ねずみは約束しました。
その夜、ねずみはひとりでこっそり出かけました。猫を起こしませんでした。
道すがら、牛に出会いました。牛はいちばん早く起きて、一歩一歩、着実に歩いていました。ねずみは牛の背に飛び乗り、川を渡らせてもらいました。ゴールの直前、ねずみは牛の耳の後ろから飛び出して、ひと跳び先着——一位。
だからねずみが一番、牛が二番。牛は何も言いませんでした。
猫が目を覚ましたとき、日が高くなっていました。駆けつけたけれど、十二の席は、もう残っていなかった。
その日から、猫はねずみを見るたびに追いかけます。いまも説明を求めているのだと、人は言います。
子どものころ、この話を聞いて、すっかり信じていました。猫のために長いこと悲しかった。いま考えてみると、この話は完成されすぎているのです。子どもに語る話の完成の仕方で。約束があって、裏切りがあって、今日まで続く結果がある。子どもはすぐわかります。約束を破ると、代価は他人が払い、恨みは自分が背負うのだと。
でも、どれだけ心を動かされても、この話はたぶん、後の時代の付け足しです。十二支は、この話が認めたがるより、ずっと古いのですから。
本当の理由:遅れてやって来た
後漢の王充が書いた『論衡』には、すでに今日とまったく同じ十二支が並んでいます。遅くとも千九百年前には、この榜は閉じていたのです。
そして、家の猫は、それよりあとに来ました。
古い書物に猫は出てきます。『礼記』には、歳末の祭りで「猫を迎える」とあります。田のねずみを食べて、実りを守ってくれるから。けれどその頃の猫は、ほとんど野性の山猫――古代の人は「狸」と呼びました。人は猫を敬いました。一緒に住まない同盟者を敬うように。蔵を見守ってはくれる。でも、家の者ではない。
ほんとうの家猫は、それからあと、シルクロードを伝い、商船に乗って、代々ゆっくりと入って来ました。ようやく竈の隅や寝台の足元に落ち着くころには、席はもう埋まっていました。
十二の動物を並べて、もう一度眺めてみました。それは二千年前の「暮らしの目録」なのです。
牛、馬、羊、鶏、犬、豚――家の六畜。財産であり、食であり、運搬である。ねずみ――蔵の敵。忘れるわけにはいかない存在。虎と蛇――扉の外の危険。兎と猿――山の獲物と隣人。龍――みんなが空を見上げたときの願い。
どの席も、毎日ともに暮らすものの席です。「いちばん優れた動物」を選んだのではない。「あなたの暮らしを成り立たせている動物」を選んだのです。
猫は間に合わなかった。猫が良くないのではない。卓が整ってから、猫が入って来たのです。
ここまで考えて、なぜか胸のどこかがゆるみました。十二支は名誉の榜ではありません。記念写真のようなものです。二千年前に一度、シャッターが切られて、当時の家がいちばん近くに置いていたものが写り込んだ。猫が写っていないのは、写真が撮られたあとに、猫が家族に加わったからです。
ベトナムに猫がいるわけ
同僚はベトナムの十二支に猫がいると言いました。調べてみると、本当でした。
ベトナムの十二支では、私たちで「兎」の位置に猫が座っています。ひとつの説は、地支の「卯」の字がベトナムに伝わるうちに、猫を意味する「mèo(ミェオ)」の音と近くなり、書き写すうちに兎が猫になった。もうひとつの説は、もっと素朴です。ベトナムの人々は兎をあまり見ず、猫をよく見る。だから、いちばん身近な方を入れた。
私は後者が好きです。この榜は、天が決めたのではない、と教えてくれるから。どこかに下りれば、その土地の暮らしがもう一枚、写真を撮り直す。中国は龍を入れた。願いが必要だったから。ベトナムは猫を入れた。猫はもう足元にいたから。
同じ榜でも、写真は違う。どちらも本物です。
禅にある猫
禅にも、有名な猫がいます。
南泉禅師の寺で、東堂と西堂の僧たちが一匹の猫を取り合っていました。南泉は猫を引き上げて言いました。「道えば救う、道えなければ斬る」。誰も言葉を出さず、猫は斬られました。
その晩、趙州が戻ってきて、話を聞くと、草鞋を脱いで頭にのせ、外へ歩いて行きました。南泉はため息をつきました。「おまえがいたら、猫は救われていたのに」。
この公案には千年の注釈がありますが、わかったとは言いません。ただ読むたびに、階段の下の茶トラを思い出すのです。あの猫は、何も取り合ったことがない。誰かが段をくれたのではない。毎晩来る。来る回数が多いほど、段はあの猫のものになる。
争っているあいだに、猫はもう、そこに座っていた。
おわりに
だからいま、十二支に猫がいない理由を聞かれたら、こう答えると思います。
榜は人が作った。猫は一度も、何の選抜にも出たことがない。席がなくても、自分が何者かを猫は知っている。暗くなれば目を細める。来るときに来て、帰るときに帰る。前から自分が誰かを知っている人のように。
猫は十二支に入っていない。そもそも、申し込んでいない。
眠っていたのです。
もしよければ、三つの問いを。
一、あなたのそばに、どんな榜にも載らないのに、いつもそこにいる人やものはいますか。
二、もし今日、十二支を選び直すなら、誰を外して猫を入れますか。
三、遅れて着いて、卓がもう整っていたことに気づいたことは、ありますか。


