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如是が書くもの

思いついたことを書いています。ある時は読んだ話、ある時は数珠を手にして浮かんだこと。

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自分の宝:大珠慧海と、外ばかり探していた人
禅の話

自分の宝:大珠慧海と、外ばかり探していた人

ある修行僧が大珠慧海禅師に仏法を求める方法を尋ねた。慧海は「自分の宝を、なぜ開けないのか」と言った。この話は私の中に長く留まった。ずっと探していたものは、もしかすると外にはなかったのかもしれない。

2026/5/259分
働かぬ日には食わず:百丈禅師が生涯をかけて証明したこと——労働そのものが修行である
禅の話

働かぬ日には食わず:百丈禅師が生涯をかけて証明したこと——労働そのものが修行である

唐代、江西の百丈山に懐海という老僧がいた。高齢だったが毎日若い僧侶と一緒に畑仕事をした。弟子が道具を隠すと、彼は食事をとらなくなった。この話は千年以上語り継がれている。

2026/4/269分
趙州の洗鉢:食後に鉢を洗うこと、それが最も高邁な修行である
禅の話

趙州の洗鉢:食後に鉢を洗うこと、それが最も高邁な修行である

若い僧が趙州禅師に修行の道を尋ねると、趙州はただ「鉢を洗いに行きなさい」と言った。一杯のお粥、一つの鉢、一言の言葉が、なぜ僧に忽然としての悟りをもたらしたのか。この禅宗公案の三層の意味を深く読み解く。

2026/4/2114分
菩提本無樹:二つの偈の背後にある漸悟と頓悟
禅の話

菩提本無樹:二つの偈の背後にある漸悟と頓悟

五祖弘忍が衣鉢を伝えようとし、弟子たちに偈を作らせた。神秀は「時時勤払拭」と書き、慧能は「本来無一物」と書いた。二つの偈、二つの修行の道、千年の論争はここから始まった。

2026/4/815分
只管打坐:道元禅師の無所求の修行
禅の話

只管打坐:道元禅師の無所求の修行

道元禅師が中国から日本に持ち帰った教えは一つだった:只管打坐。悟りを求めず、仏を求めず、ただ坐る。それが修行のすべてだ。

2026/4/815分