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処暑:夏は終わるのではなく、止まるのだ

蝉の声がやみ、暦は処暑を告げた。古人はこの節気を「天地始粛」と観た——天地が先に歩みを緩め、人がそれに従うかは人のこと。休み中も仕事の通知を気にしていた私に、川辺の太極拳のおじいさんがひとこと残した。一時間かけて煮るスープこそ、節気に追いつく普通の人の方法かもしれない。

一一如是
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#処暑#二十四節気##養生#スローライフ#東洋の知恵
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処暑:夏は終わるのではなく、止まるのだ

今日の午後三時、ベランダでしばらく座っていたら、あることに気づきました。蝉が鳴かなくなっていました。

つい数日前までは、あの隙間のない、疲れを知らない声が一面にあって、夏のために作曲されたBGMのようでした。今日はそれがない。代わりに名前の知れない鳥が一羽、二声鳴いて、少し間を置いて、また二声。その声と声のあいだの間合いが、急に大きく感じられました。

カレンダーを見ました。昨日は処暑でした。

処暑という名前、これまで深く考えたことがありませんでした。てっきり「まだ暑い」という意味だと思っていました。小暑、大暑と並んで、暑さのもう一段階だろうと。先日調べてみて、思い込みが逆だったとわかりました。「処」の字は、ここでは「止まる」という意味です。処暑とは、暑気がここで終わる、ということ。夏の一番暑い時期ではなく、夏が退場し始める時期のことでした。

古人のこの節気の観察は、どこまで細かいのでしょう。処暑には三候があると言います。一候は「鷹乃祭鳥」——鷹が本格的に狩りを始め、獲物を並べてまるで祀るようにする。二候は「天地始粛」——天地の空気が粛(おごそ)かになり、草木はもう必死に伸びようとせず、風の中に何か引き締まるものが入る。三候は「禾乃登」——稲が実る。

私が一番長く立ち止まったのは、「天地始粛」の四文字です。

粛というのは、荒涼とは違います。引き込む、ということ。夏のあの外へ外へと押し出す、燥(そう)とした騒がしい気を、天地が少しずつ手元へ戻していく。葉の緑はまだ緑なのに、その緑がもう無理をしていない。風はまだ風なのに、あの突き進む勢いが減って、涼の糸が一本混ざっている。

自分のことをひとつ話します。

八月の上旬、数日休みを取りました。休みと言っても、場所を変えて不安になっただけでした。昼は家族と湖のほとりを歩き、ポケットの中のスマホを二十分おきに取り出して確認する。仕事のグループに自分の用件はない。でも、自分の用件があるかもしれないと思ってしまう。夜、子どもが寝たあと、人生でいちばん気持ちいい風に当たりながら、頭の中では来週の予定を回していました。

ある日、風がとてもよくて、妻が「この風、感じてごらん」と言いました。私は「うん」と答えました。二分後に彼女は言いました。「全然感じてない。仕事のこと考えてるでしょ」。

言い当たっていました。

何年も前、川辺で太極拳をしているおじいさんに会ったことがあります。夏の夕方、いつも同じ場所で、水底の草のようにゆっくり動いていました。ある日、友達を待つ間に手持ち無沙汰で、彼の拳を見ていました。やり終えて収勢し、階段に腰を下ろして水を飲んでいるところに、私はどこからか勇気を出して話しかけ、「今日は暑いですね」とか、ありきたりなことを言いました。

彼は言いました。「もうすぐ処暑ですね」。

私は言いました。「処暑を過ぎてもまだ暑いですよ。残暑が厳しい」。

彼は水を一口飲んで、今日まで忘れない言葉をくれました。「夏が終わるんじ�ゃない。天地が先に止まったんです。人がついていくかどうかは、人それぞれのことです」。

そのときはよくわかりませんでした。今は少しだけわかります。

天地は巡りのこの地点に来ると、自分で速度を落とし、自分を引き込みます。稲はいま実る——実るということ自体がひとつの「止まって」です。もう伸びない。十分であった。頭を垂れてよい。けれど人には節気がない。人の夏はずっと続けられる。予定表は一月から十二月まで、真夏の蝉鳴きみたいに隙間なく詰まっていて、間に合間がない。

だからおじいさんの言葉の後半は、実はかなり厳しい。天地が止まった。あなたはついていくか。

先月から、私は少しついていってみることにしました。

方法は実に単純です。毎日二十分、なにもしない時間を作る。スマホをスクロールする「なにもしない」ではなく、本当に、なにもしない。最初はとても苦しくて、そわそわして、この二十分のどこかにもっと大事な用件が心配されるのを待っている気がしました。手は勝手にスマホを探すので、別の部屋に置くことにすると、今度は手の置き場がわからなくなりました。

処暑のあとにはもう一つ、漢方で「秋疲れ」と呼ばれる现象があります。夏に使いすぎて、涼しくなると途端に眠くなる。怠けではなく、体が借金を返しているのです。私は毎年九月十月になると自分を責めていました。八時間眠ってもまだ眠いなんて、なんて意気地ないんだと。この言葉を知って、ふっと肩の力が抜けました。眠いのは普通なこと。体が取り立ての季節を迎えただけのこと。眠さを許すことは、無理に目を冴えさせるより、ずっと体裁がいい。

二週間ほど経ったある日、その二十分の中で、ふと楼下の中庭の風の音が聞こえました。風の音がやって来たのではありません。風の音はずっとそこにあって、私が聞いていなかっただけでした。

母のやり方は、私のよりずっとやさしい。「一日二十分なにもしない」なんて気負ったことはしません。処暑を過ぎると、ただあるスープを作り始めるだけです。百合根、白木耳、少しの氷砂糖を、弱火でことこと。夕食のあと、一人一杯ずつ。夏に流した汗、徹夜した夜はね、と母は言います。秋にゆっくり取り戻すの。これが潤いになるの。

そう言いながら、母は「秋の養生肉食(貼秋膘)」についても一言あって——立秋のあと肉を多めに食べて体力を補うというあの習慣のことです。昔の人は夏、畑で体を動かして、本当の肉を落としていた。だから秋に補った。いまの人は夏を冷房の部屋で過ごす。落としているのは肉ではなくて、気分と睡眠でしょう、と母は言います。肉はいいから、まず睡眠を十分にしなさい。どんな養生記事よりも腑に落ちる話でした。

調べてみると、百合根も白木耳も、漢方ではどちらも潤いの性質で、乾燥の秋にちょうど合うそうです。でも私はもう一つの説明のほうを信じたい気持ちです。一時間かけて煮るスープは、それ自体がひとつの「遅さ」だということ。急かしようがない。夕方の家の中に、待つというリズムをそっと強いる。鍋がことこと、小さな音で、でも家中に聞こえる。

夏は外へ出ていく——汗、夜更かし、大きな声、あちこちへ出かけること。秋は内へ引き戻る。中国のものが説くのは、たぶんこの出し入れです。拳は引き戻せてこそ打てる。言葉は間合いを取れてこそ重くなる。出すばかりで引き取らない人は、崩れてしまう。

処暑のあと、小さなことがいくつかできます。夏より少し早く眠る——大げさに早寝するのではなく、ただ夜更かしをやめる。夏より少し温かいものを食べる。冷たいものは控えめに。夏より少しゆっくり話す。考え事が浮かんだら、そこで少し止まる許しを自分に与える——すべての考えを最後まで追わなくてもいい。

どれも大げさなことではありません。節気というものは、もともと大きな事をさせるためにあるのではない。十五日ごとに、そっと肩を叩いてくれる。「ねえ、天地のリズムが変わったよ。自分のところをちょっと見てごらん」と。

昨日の夕方、またベランダに座りました。あの鳥はまだ鳴いていました。二声、間、二声。そして思うのです。この鳥のほうが、私より上手に生きている。鳴き終わったら止まる。その間合いの中に休んで、少しも慌てていない。

夏は蝉の声を片付けていったのに、鳥は別の音を探してきて埋めようとはしない。

空いたままに、しておくのです。


あなたに、そして自分自身に、三つの問いを。

一、静かに、ほんとうになにもしない時間を持ったのは、いちばん最近でいつですか。十分を超えるもので。

二、明日から一日二十分、「天地が止まって、自分も止まる」時間があるとしたら——最初に手放せないものは何でしょう。

三、あなたの家に、ゆっくり煮るしかないスープはありますか。

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