汝魚にあらず:濠水の橋に立って、荘子がわかった気がした
荘子は魚が楽しいと言った。恵子は汝は魚ではないと言った。橋の上に立ってやっとわかった——慈悲と知恵の間に、橋がある。

子非魚:濠水の橋に立って、荘子が少し分かった気がする
今日の午後、公園を散歩していたら、あの小さな石橋の下に魚がいた。
大きくない。小さなフナが何匹か、水草の間をぬって行ったり来たり。日差しがちょうど水面に当たって、魚の影が橋脚に映り、ゆらゆら揺れていた。
そこにずっと立って見ていた。
そして荘子のことを思い出した。
濠水の橋の上で
二千年以上前、二人の人が橋の上に立っていた。
川は濠水、橋は濠梁。たぶん大きな橋ではなかった。田舎のありふれた石橋のようなものだったろう。
二人——一人は荘子、もう一人は恵子。
荘子は水の中の魚を見て、ふと言った。
「鮎魚(ちょうぎょ)が悠々と泳いでいく。あれが魚の楽しみだ。」
ただそれだけ。とても普通の一言。「今日はいい天気だね」と言うような自然さで。
でも恵子は黙っていなかった。
恵子は論理学者だった。今の言葉で言えば哲学研究者。この言葉を聞いて、条件反射のように返した。
「あなたは魚ではない。どうして魚の楽しみを知るのか?」
普通なら
普通なら、こういう会話はそれで終わる。魚が楽しそうだと言えば、あなたは魚じゃないでしょと返され、笑って、ご飯を食べに行って、おしまい。
でも荘子は違った。
荘子は言い返した。
「あなたは私ではない。どうして私が魚の楽しみを知らないと知るのか?」
恵子は言った。なるほど、私はあなたではないから、あなたのことは知らない。でもあなたも魚ではないから、魚のことも知らない。完璧な論理。私の勝ちだ。
すると荘子は最後の一言を言った。
待ってくれと。最初に戻ろうと。あなたは「どうして魚の楽しみを知るのか」と聞いた。その問いかけた瞬間に、あなたはすでに「知ることは可能だ」ということを認めている。「どうやって知るのか」と聞くということは、「知ることができる」という前提が含まれている。
「私はこの濠水の橋の上で知ったのだ。」
正直に言うと
正直に言うと、これを初めて読んだ時、荘子はちょっと屁理屈をこねている気がした。
恵子は論理を言っているのに、荘子は……何を言っているのか? 直感? 感覚? 証明の不要な何か?
あなたは魚じゃない。どうして魚が楽しいと言えるのか?
でも今日の午後、あの小さな石橋に立って、水の中の魚を見ていたら、少し分かった気がした。
魚を見ていた。陽の中を行ったり来たり、尾を振って、水しぶきがきらっと光る。楽しいのか? 証明できない。魚の脳を持っていないし、魚の神経系も知らない。「楽しい」という概念が魚の世界にあるかどうかも分からない。
でもその瞬間、私は嬉しかった。
魚を見ていて、魚もあの午後を楽しんでいると感じた。この「感じ」は証拠が要らない。ただ自然に起こること。子供の笑顔を見た時、心理学的実験をして「この子は楽しいから笑っている」と証明しなくても——ただ分かる。あれと同じだ。
荘子の世界
荘子という人は戦国時代に生きた。どんな時代かというと、みんなが戦って、今日は私が滅ぼし、明日は君が滅ぼす。諸子百家はみんな方法を探していた——どう国を治めるか、どう戦うか、どう生き延びるか。
荘子はそんなことを考えなかった。
彼が考えていたのは——自由とは何か? 楽しさとは何か? なぜ頭でばかり考えなければならないのか、心で感じてはいけないのか?
友人は少なかった。恵子はその一人。恵子は名家で、論理を専門とする。何事も証明し、分析し、筋道を立てる。荘子は正反対。何事も証明はいらない。感覚は感覚、知ることは知ること。
この二人が友達でいられたのは面白い。
一方は何でも論理を言い、もう一方は何にも論理は要らないと言う。でも橋の上で話ができて、魚の楽しさについて半日言い争えた。この言い争いは喧嘩ではなく——ゲームだった。二人の賢い人のゲーム。
恵子も間違っていない
後で考えてみると、恵子も間違っていなかった。
「あなたは魚ではない。どうして魚の楽しみを知るのか」——この問い自体は正しい。私たちは本当に他の生命の内面に入り込むことはできない。妻が何を考えているかさえよく分からないのに、魚なんて。
この問いの背後には、非常に深い哲学的な問題がある。自分以外の何かを本当に理解できるのか?
猫の気持ちは分かるか? 木の気持ちは? 他の国、他の文化、他の時代の人の気持ちは?
厳密に言えば、分からない。自分の角度から見て、自分の経験で推測することしかできない。
でも荘子の言いたかったのは——だから何?
完全に理解できなくても、その瞬間に感じた嬉しさは本物だ。魚が本当に楽しいかどうかは、実はそれほど重要ではない。大切なのは、ある午後、濠水の橋の上で、一人の人間が、魚が泳いでいるのを見て、心から嬉しくなったこと。
その嬉しさは証明を要しない。
橋に立って
今日、公園の小さな橋に立って、十分ぐらい魚を見ていた。
そばを通る人は、犬を散歩させたり、ジョギングしたり、ベビーカーを押したり。誰も魚を見るために立ち止まらなかった。みんな忙しい。
私も昔はそうだった。忙しかった。
橋に立って魚を見る時間もない。魚を見るのは時間の無駄だと思っていた。「楽しさ」には条件が必要だと——お金があって、時間があって、何かがあって——と思っていた。
でも荘子は二千年以上前に言った。楽しさに条件はいらない。橋に立って、魚が泳いでいるのを見て、嬉しく感じたら、それで嬉しいのだ。
それだけ。
帰り道
帰る時、太陽はもう西に傾いていた。
橋の下の魚はまだ泳いでいて、水草はまだ揺れていて、影はまだゆらゆらしていた。
手に持っていたパンくずを少しばら撒いてみた。魚が群がって水面がざわついた。そしてまた静かになった。
もし荘子が今そばに立っていたら、深いことは言わないだろう。ただ笑って、「さあ、帰ってご飯にしよう」と言うかもしれない。
あなたへの三つの問い:
1. 理由のない嬉しさを感じたことがありますか? その時、何をしていましたか?
2. 「知る」ことには必ず証拠が必要だと思いますか? 「ただ分かる」ことはありますか?
3. もし今日、橋を通りかかって、下に魚が泳いでいたら——立ち止まって見ますか?


