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手首のあの赤い紐は、誰が結んでくれたものですか

引き出しの中から古い赤い紐が出てきました。数年前、母が結んでくれたものです。赤い紐は二千年もの間、中国人の手首に結ばれ続けてきました。長命縷、月下老人、本命年。中国の家族は「愛してる」と言いません。愛はスープと、セーターと、紐に変わるのです。

一一如是
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#赤い紐#祝福#本命年#東洋文化#お守り
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手首のあの赤い紐は、誰が結んでくれたものですか

引き出しの中を整理していたら、古い赤い紐が出てきました。

結び目はゆるんで、色は何度も洗ったような薄いピンクに褪せていました。しばらく手のひらに載せて考えていたら、思い出しました。これは数年前、母が私の手首に結んでくれたものです。ちょうど転職したときでした。母は「うまくいくといいね」なんて一言も言いませんでした。夕食のとき、突然「手を出して」と言っただけ。出してみると、すっと結んでくれました。

結び終わってから、「付けたままにね。外しちゃだめよ」と言いました。

長い間つけていましたが、いつの日か引き出しの中へ。今日見つけて、それでも捨てることはできませんでした。

中国の家族は「愛してる」と口にしない

このことを、長いこと考えていました。

うちの家族は誰も「愛してる」を口にしません。母が私を心配する方法は、スーツケースにあれこれ詰め込むこと、ご飯を食べたかと聞くこと、手首に赤い紐を結んでくれること。

それがうちだけじゃないことに、後から気づきました。多くの中国の家庭がそうなんです。「愛」という言葉は重すぎて、口にすると双方が気まずくなる。だからそれは別のものに変わります。スープ一杯、セーター一枚、紐一本に。

赤い紐は、たぶんその中でいちばん静かな形です。値段はほとんどしない。自分で編むこともできる。主張もしない。手首に細く一本、注意しなければ見えないくらい。でも、ずっとそこにある。

ふと目を落とせば、わかる。誰かが自分を想ってくれている、と。

この紐は、思っているよりずっと古い

あとで調べてみました。この紐は、二千年もの間、中国人の手首に結ばれ続けてきたのです。

はじまりは端午の節句でした。漢代の習俗で、五月五日には青・赤・白・黒・黄の五色の糸を子どもの手首と足首に結びました。「長命縷」と呼ばれたものです。五色は五行に対応して、天地のすべてを子どもに結びつける、という意味でした。厄を遠ざけ、無事に育ちますように。

昔の人は、実に正直でした。子どもは病気になるし、危険に遭うし、育って離れていく。毎秒守ってあげることはできない。だから願いを一本の紐に編み込んだのです。紐のあるところに、人がいる。

その後、赤い紐は結婚と結びつくようになりました。

唐代の書物に、こんな話が残っています。韋固という男が、宿に泊まっていた夜、散歩に出かけると、月の下で何かを読んでいる老人に出会いました。覗き込んでも、一字も読めない。老人は言いました。「これは天下の結婚の帳簿だ。お前の縁もここに記してある」

韋固は尋ねました。「では、私の将来の妻は誰ですか」

老人は言いました。「市場の野菜売りの娘だ。今年三歳になる」。韋固は見に行きました。貧しそうな小さな女の子。気が進まなくなった彼は、まとうやら、使用人に命じて娘を殺そうとまでしました。使用人は慌てて、急所を外し、眉間を切りつけただけでした。

十四年後、役人になった韋固は、刺史の娘と結婚します。妻は美しい人でしたが、眉間にいつも花の飾りを貼っていて、決して外しません。あとで知ります。彼女はあの女の子で、傷跡がまだ残っていたのです。

そのとき韋固は理解しました。月下の老人は、とっくに二人の足に赤い紐を結んでいたのだと。「千里の縁は一本の糸に導かれる」という言葉は、この話から来ています。紐が結ばれたら、どう逃げても、どう遠回りしても、最後にはその人の前に立つことになる。

初めてこの話を読んだときは、少し怖かったです。十四年逃げても逃げられないなんて。いま読み返すと、逆に慰めに感じます。切れない縁というものは、本当にある。遠くまで来たつもりでも、紐はまだ繋がっている。

干支の年の、あの一本

赤い紐をいちばん見かけるのは、本命年のときです。自分の干支が回ってくる、十二年に一度の年。

母が結んでくれた年は本命年ではありませんでした。でも本命年の人がどうするかは、さんざん見てきました。赤い紐、赤いベルト、赤い靴下、赤い下着。頭のてっぺんから足の先まで、赤で武装する。いちばん信じていないような人でさえ、その年は黙って赤い靴下を履きます。それでも軽くごまかして、「母が買ってきたから。断るのが面倒で」なんて言うんです。

——ほら、結局履いている。

なぜ赤なのでしょう。本命年は「太歳に沖される」、運気が上下して、赤は陽の色で厄を払う、というのが古い言い伝えです。信じるかどうかは、あなた次第。私が面白いと思うのは、その行為そのものです。一本の紐では何も防げないと、ちゃんとわかっている人が、それでも結ぶ、ということ。

これは迷信ではありません。これは姿勢です。不確かな生活の中で、自分のために用意する、小さな支点です。

私は不安なとき、数珠を指で撫でます。緊張したとき、親指をこすり合わせます。赤い紐と同じことです。手の行き場があれば、心にも行き場がある。

お寺の前の行列

ここ数年、お寺の前に並ぶ若い人がどんどん増えています。二三時間並んで、「ご祈祷を受けた」赤い紐を一本もらうために。

初めて見たときは驚きました。行列の人の多くが、どう見ても仏教徒ではない。髪を染めている人、ストリートウェアの人、タピオカを持った人。彼らは堂の外に並んで、中に入り、紐を受け取り、結んで、出てきて、写真を撮る。

あとでわかりました。彼らが求めているのは仏法ではなく、紐に結ばれた「平安」という言葉なのです。

仏を信じない人も、お守りは欲しい。人は生まれつき、祝福されたいと願っているから。どこかで読んだ言葉ではなく、私が見てきたことです。何も信じていなくても、「あなたの無事を願っています」が自分に降ってきたとき、それを受け取りたく思うのです。

赤い紐は、祝福の最小単位です。紐一本、結び目一つ、小さな珠一つ。安いから、誰でも持てる。小さいから、ずっとつけていられる。赤いから、どんよりとした日に、手首に少し色がある。

紐が古くなったら

こんな質問を受けたことがあります。古くなったらどうするの? 自分で切ってはいけないと聞く。切れるのを待つか、正月に新しいものと交換して、古いのは燃やすのだと。

それが習わしです。でも私はこう考えます。紐はすり切れるまで願いを運んで、それで役目を終えたのです。あとはどうでもいい。切っても、燃やしても、引き出しにしまっても。想いは結んでもらった瞬間に、もう届いている。そのあとは、ただの形です。

引き出しの中のこの紐は、そのままにしておきます。いつか引っ越しで失くしても、罪にはなりません。母の想いはこの紐の中にはありません。「赤い紐、まだつけてる?」と聞いてくる電話の中にあります。

おわりに

ここまで書いて、古い赤い紐を、もう一度手首に結びました。

結び目がゆるんでいたので、新しいのを結びました。少しねじれていて、きれいではありません。でも、もともと完璧に結ばれた結び目なんて、ないのでしょう。

あなたの手首に、そんな紐はありますか。あるいは別の何か。玉の一つ、珠の一連、硬貨一枚。値打ちはないのに、ずっと持ち歩いているもの。

あれば、今日、取り出して眺めてみてください。誰がくれたのか、その日、何と言ったのかを思い出してみて。

なければ、それでもいい。いつか誰かが、あなたに言うかもしれません。手を出して、と。


三つの問いを、あなたに、そして私自身に。

  1. 捨てずに持っている、値打ちのないものはありますか。それは誰がくれたものでしたか。
  2. あなたの家族は、想いをどう伝えますか。「愛してる」は口にしますか。もし口にしないなら、その言葉は何に変わっていますか。
  3. もし今、誰かがあなたの手首に赤い紐を結んでくれるなら、どんな願いを込めてほしいですか。

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